Lost End Travelers(sample)

on your mark/和田轍

 終わった所から始める旅に、終わりはない。
 ページに躍る文字を追っていた視界の端で、白い湯気がゆらゆら立ちのぼる。ロンドン・ヒースロー空港の雑沓は出国審査場からほど近いコーヒースタンドにも届いて、土方は人待ちの手遊
てすさ
びに開いた文庫本を上着のポケットに戻した。
 紙コップを傾けながら、ゲートを通過した人の波を目でたどる。ナッツに似た風味が鼻腔を甘く通り抜け、浮かれた様子の旅行者、慌ただしいビジネスマン、警備の職員の中に、彼はようやく、待っていた男の姿を捉える。時間にしてたったの十分程度、しかし確かに土方を待たせた男は、常ならぬ渋面を崩して、へらりと土方に手を振った。もう片方の腕にカンカン帽とジャケット、そして本来ならチノパンの腰に収まっているはずのベルトを抱えて。人波の中から難なく抜け、ほどなくして土方の対面に収まった彼は、チューブ形に湾曲した窓の切り取った青空をいなすように、もう一度、気負いなく笑って見せた。そんな仕草がどこまでも斎藤という男らしくて、土方は異邦の地にふたりいることをしばし忘れるような心地を覚えた。
「存外難しいもんですねえ、得物の霊体化ってのは」
 斎藤はもうひとつ置かれていたカップの蓋を外して、細く息を吹きかけた。追い出された湯気は縁からあふれて消える。
「粗方剥ぎ取られたってわけか」
 からかう声色に、土方がこのトラブルを楽しんでいるのを読み取ったのだろう、少しだけ眉を下げ、安堵をにじませながら、斎藤はコーヒーで唇を湿らせる。
「まあね、持ってないわけですから、出てくるはずがないんですがね」
 背の高いテーブルに隠れて、彼は手早くベルトを戻した。この男はそんな手間すら惜しんで追いかけて来たのだ。想像して、土方は吐息で笑った。
 よかった、と斎藤が呟いた。なにがだ、と土方は視線で問うた。保安検査を無事に通過できたことを言っているにしては妙にそぐわない、やわらかな表情をしていたから、土方は目の前にいる男が表に出すつもりのなかっただろう言葉まで読み取ることになった。もしかしたら、雑音に飲まれた土方が開いた小説をすぐに引っ込めたところを見ていたのかもしれなかった。
「百年早い」
 少しだけぬるくなったコーヒーは先ほどよりも幾分か甘やかな味わいを口腔内に残していった。旅の相棒は目を伏せて、カップで隠しているつもりの唇の端をほころばせた。
 使い込まれた木製のテーブルには細かな傷や擦過痕が刻まれていた。一服の安息を提供するためだけのそれは、忙しなく人の行き交う出発ロビーに
しず
かな空間を切り取って、ふたりは寄り添うような距離で出発を待っていた。

あなたと夢の果てが見たい/西尾

春は常夏の海より青く/さいとうあかる 

 南西へ向かう空の旅は、少しずつ終わりに近付いていた。機内の友となったアニメーションのエンドロールを眺めながら、斎藤はヘッドフォンを簡易テーブルの上に置く。吐息が口元で滞った。
 うねる前髪を払いのけ、眉間を指で揉み込んだ。瞼の裏には、素人が飛行機の着陸に挑むラストシーンが蘇る。子供だましだと視聴を始めて、最後はすっかり手に汗握り見守っていた。あのヒロインが、我らがマスターと同じくらいの年頃に見えたのがいけない――と言い訳したところで、心の動きひとつ他人のせいにする、大人の狡さを己で嗤った。
 通路を軽い足音が駆けてゆく。どこかの子供が手洗いに立ったらしい。ちらと視線を流した先を、黄色いワンピースが横切ってゆく。恐らく母親であろうご婦人が、花柄のワンピースの少女を追ってゆくところだった。思わず、目元と口元が緩んだ。
「余所見とはつれねえな」
 何でもない家族の一幕を覗き見ていたなら、低い滑らかな声が斎藤の意識を引き戻した。肩を竦め、半身を向ける。旅の連れ合いは窓枠に頬杖を付いて、こちらを眺めていた。
「あんたそんなに狭量でした?」
 画面に夢中になりすぎたのだろう。声はほんの少し、掠れた響きを帯びていた。整えるべく咳払いを重ねる。そんな斎藤に向き直り、土方は静かに微笑んでいた。もっとも持ち上がった口角には、僅かに意地の悪さが滲んでいたが。
「やっと終わったと思っても、こっちを見向きもしねえんでな。愛想を尽かされたかと」
「そいつは失礼を」
 返事の代わりに頬に指先が伸び、隈をなぞる。言葉は咎める意味のそれであったが、涼やかな目元が僅かに垂れ下がっていたので、戯れの一環とすぐ知れた。そうであるから斎藤も軽口で応えたのだ。そして、吐息で笑んだ土方の指先は、頬を抓るでもなく、ただ優しい感触を残して離れていった。
 国際線のビジネスクラス、土方の隣席である。こうして旅をするなど、生前は想像もしなかった。そもそも空の旅自体が想像の埒外ではある。飛行機なんぞという代物、斎藤にとっては、異人による曲芸飛行の印象しかなかったから。
 ともあれかつての上司と肩を並べて旅する状況を、斎藤は半分愉快な心持ちで受け止めている。なお、もう半分を占めているのは緊張である。何しろ、己が土方と二人旅行する間柄であることなんぞ、未だに夢か幻か何かだという思いが拭えなかったので。

太陽は後ろから昇る/北内

 暗い水の底にいるような深い眠りに、さざ波が立った。聞き慣れた囁き声だった。
「起きてますか」
 土方は悪気なく、ただ自然とそれを無視しようとした。初めての土地を一日中歩き回った体は、サーヴァントの身でも重たくて、まだ眠っていたかったのである。
 水底に沈んでいこうとする土方の意識は、今度こそはっきりした声に引き上げられた。
「副長、起きてますか」
 期待混じりの声音につられて僅かに瞼を上げる。
 暗がりに見えたのは、自分が寝ているのとは異なるもう一つの寝台、窓と、僅かに揺れるカーテンで、畳に布団に障子というカルデアの屯所ではなかった。そこで、そうだ、旅行に出ていたのだと思い出した。
 窓辺側のベッドに腰かけて土方を柔らかく見下ろしているのは、同じ部屋に泊まっている斎藤だった。狼じみた琥珀の目が細められている。
「ねえ、起きてますか」
 喉元まで、お前に起こされるまでは寝ていた、という回答が出掛かる。
 だがゆっくりと瞬きして斎藤を見つめ返す間に、違和感を覚えた。別の質問が口をついて出る。
「どこか行くのか」
 消灯前、それぞれの寝台に潜り込んだときは、宿に備え付けの寝間着を着ていたはずだ。その斎藤は、今は白いシャツに木綿のパンツ、スニーカー姿だった。いつでも、どこにでも行ってしまえる格好で、土方を覗き込んでいる。
 聞かれた斎藤が口ごもった。安らかに寝入っていた土方を無理やり起こしたくせに、今更になって、再び寝かせておくか迷っているようだった。
 だが、土方が眠たげにしていても斎藤の答えを待っているというのに気付くと、斎藤は結局、照れたようにはにかんで、囁き声で土方を誘った。
「もしよければ、今から、少し出かけませんか」
 斎藤の後ろでカーテンが揺れていた。昨晩は暑くて、窓を僅かに開けたまま眠りについたのを思い出した。
 涼しい風が寝室に入ってきて、同時にカーテンの後ろから、外の世界が垣間見えた。濃い紺色がほんの微かに白んで見える、夜の終わりの色だった。

黒もまた紺碧に染まる/南京半二

「うーん……」
 普段上司の眉間を見ては揶揄いのひとつでも投げる男が、同じ、いやそれ以上に深い皺を刻み込んで唸っている。腕を組み胡坐を掻いて、軍議の時よりよっぽど真面目に、真剣に悩んでいた。
「やっぱり入らない……」
 再び唸り声を上げた男――新選組三番隊隊長である斎藤一は、ままならぬ現実にごろりと転がった。成人男性の体を悠々と受け止めた寝台はカルデアの無機質なそれとは異なり、ふかふかと柔らかく敷布には精巧な刺繍が施されている上等なものであった。二人分の重量をもしっかり受け止めて、音の一つも立てやしない。放り出された斎藤の腕が力なくぶつかるものだから、同じく新選組副長を勤める土方歳三からは溜息がこぼれた。常の黒と赤の服装から一転、清潔感のある真っ白なシャツを着ているからだろうか。男の気配がどこか緩んでいるのが斎藤にはおかしく感じられた。
 床に散乱しているのは大きなスーツケースがひとつ、そして雑貨や食品の数々。どれもこれも青と白の建物をあしらっている。首を捻って窓の外を見れば、それと同等の、むしろもっと色鮮やかな光景が広がっている。
 ギリシャはサントリーニ島。青と白、そして紺碧に囲まれた街。土方と斎藤はこの異国の地にて二人きり、存分に羽を伸ばしていた。