春待ちの獣たち

 冬眠明けの熊に似ている。見たことはないけど、きっとこんな感じだ。そう言って斎藤が笑ったのは、彼女が土方の私室で眠るようになってから、然程日の経たない朝のことだった。土方はそう記憶している。彼が仮初めの肉体を得てから、初めて寝過ごした朝だった。斎藤はともに寝具の中でころころ寝そべったまま、笑っていた。どうして見ているだけで起こさなかったのか、いつから眺めていたのか、妙に楽しげなのは何故なのか。彼女を問い詰めたいことはいくらでもあったが、寝過ぎて倦怠感の却って強くなった頭がただ重く、のっそり悪態ひとつだけを投げた、ひどく格好のつかない朝だった。
 薄ら明るい早朝の空気は静寂を吸いとって粛々と冷えていた。肺に冷気が落ちてゆくのを感じながら、土方はすぐ隣で丸く膨らむ布団をそっと持ち上げた。すうすう寝息を立てる斎藤の無防備な顔がある。よく訓練された猟犬の警戒心を持つ女の、穏やかな寝顔が。すぐそばで彼女が屈託のない姿を許していることに、身をゆだねていることに、土方は、ひとりの修羅は、凍てつく雪の中に春を見つけたように、身体の内側が静かにほどけるのを感じる。たとえ毎朝繰り返される光景であっても、彼にとっては何物にも代えがたいひとときだった。
 ラジエーターは冷えて沈黙していた。温水を循環させるはずのボイラーが停止しているようだった。早朝からボイラー室で騒ぎを起こす犯人に嫌というほど心当たりのある土方は、暖房設備が再起動するまで絶対に部屋から出ないことに決めて、寝台からそっと抜け出した。斎藤がこの部屋を使うようになってから用意した電気ストーブが、彼ひとりでは必要のなかったそれが、物入れのどこかにあるはずだった。
 背を向けた彼の腰に爪を立てる指先。つい、引き留められる。腰掛けたままかえりみると、シーツの上で、白い腕がぱたぱたとさまよっていた。ほとんど反射で、彼はその手を取る。女の手はするりと抜け出して、ひらいた指の背でうすく開いたまぶたを緩慢に擦った。
「どこに……」
 目覚めたばかりの声は高く掠れていた。続く言葉を待ったが、くちびるに隙間を残したまま、深い呼吸に飲まれて、音になる前に消えていた。色素の薄い瞳が困惑を映して揺れる。ぼう、として、ゆっくりと言葉を探しているようだった。土方はようやく、ひとつの結論に至る。この女はまだ半分ほど眠りの中にいて、つまり、珍しくも寝惚けているのだと。
「何か着るか」
 頬にかかった髪をとってやる。額から指を通して、顔のまわりでふわふわするそれをなでつける。
「いらない……」
 おとなしくされるがまま、斎藤はこちらをじっと見ている。いつもこれくらい静かだったら。想像する。少しもそそられない。まったく彼女らしくない。
「冷えるぞ」
「んー……なにが、ですか」
「何がって、おまえがだろ」
 難しい顔をして、回らない頭で必死に答えようとしているのを、もっと見ていたくて、寝かせてやりたいのに構ってしまう。いつの間にか、かすかな暖気が身体を包んでいた。ボイラーは無事に修復されたようだ。寝台から抜け出す理由はもうない。まだ食堂もひらかないような早朝だから、土方は外気を巻きこまぬよう布団に戻る。枕に頬杖をついて、傍らの女を見る。
「ゆうべは」
 素直に布団を掛け直されながら、斎藤がゆっくりと言葉を紡ぐ。
「顔見たら、がまんできなくて」
 目を覚ましてからずっと考えていたのは、それか。これが言いたくて、必死に探していたのか。
「おまえがいいなら構わねえよ」
「ん……」
 視線を揺らめかせて、彼女はしばし、思案をめぐらせる。やがて、くしゃりと面映ゆそうに笑った。
「ちょっと、よすぎました」
 これを言わせて、手を出さなかったことを褒めてほしいくらいだった。
 言いたいことを言った彼女は目を閉じた。眠りなおすことにしたようだ。こちらに脚を絡めて、するりと身を寄せてくる。裸の肌同士がふれる感触が、温度が、生きた身体の重さがいいと言ったのを、斎藤は憶えているのだろう。ものわかりのいい女だから。彼女がこんなことをしてくれている理由を、土方は他に考えつかない。
「逃げたいと思うか」
 閉ざしたまぶたがぴくりと震えた。鼻にかかった吐息をもらして、より深く、枕に顔を沈める。
「俺は」
 寝具の中で、男は裸の腰をさらに強く引き寄せる。
「おまえを縛っているか」
 卑怯なことをしている自覚はあった。次に目覚めた斎藤がこのやりとりを忘れるという確信を持って、土方は彼女に問うている。斎藤が隣で眠るのは、ただ彼女の忍耐がそれを支えているだけの、薄氷を踏んで進むような関係の結実だった。彼の認識では、そういうことになっていた。
 もぞりと、斎藤が少しだけ顔を上げた。どこか腹を立てているようにも見えた。顰めた眉が舐めるなと言っていた。
「ばかですねえ」
 寝惚けているくせに、忘れるくせに、ふと目をとろかせて、彼女は笑った。
 腕を頭の下に敷いて、土方は眠ることにした。抗いがたいほどのあたたかな眠気が、なぜだか急に腹の底から湧き出していた。
 春を待つ冬眠中の獣は、こんな心持ちでいるのかもしれない。この朝のことを、彼はいつまでも憶えているだろう。何物にも代えがたいひとときで、そして、ひどく格好のつかない朝だった。