狼たちの午後(sample)

 空は深く快活な黄色を隠して、深層まで紅く染めあげられていた。世界そのものが燃えるような色彩だった。終わりゆく世界から彼を隠すかのように、土方の眼前を、胼胝の目立つ手のひらが覆っている。余計な世話だと振り払ってしまうのは容易いが、惜しかった。そう考えられる程度には、今も隣に収まる男に対して、彼は情義と呼べるものを心の内に持ち合わせていた。
「起こしましたか」と斎藤が訊ねた。土方の顔のすぐそばに翳した手を引っ込めた。ゆるやかな意識の遮断、眠りという安寧は、手放してから思えばなかなかに得がたい特権だった。なにより、この男がそれを保障している、この事実が土方をひどく愉快な心持ちにさせた。
「日没までには着きたかったんですが。どうにも道が悪いもんで」
 旧道は細かなひび割れが這い、行く手にはところどころで枯れた潅木が横たわっていた。窓に隙間をあけると、オセアニアの荒れ地は肌寒さの中に籠もるような暑気をかすかに漂わせて、早い夏の訪れを想起させた。人気の途絶えた悪路である。土方は運転席の男を見遣った。車の揺れで起こしてしまうのが忍びないほどに、先ほどまでの自分は寝入っていたのだろうか。斎藤の表情からはいつもの軽薄な色が抜け落ちて、静かに凪いでいた。
 死んだように眠るのはやめて欲しいと、この男は土方に言ったことがある。意識したとて制御下に置けるものではないから、斎藤も、頼んでみたところで期待もしていなかったのだろう。ただ、土方が息をしているか、彼の心臓が動いているか、斎藤は頻りに確かめようとして、土方はそれを受け入れる、そんな習慣が、ささやかな秘密として日常風景の中に増えた。それだけだった。
 乾いた空気に張り付いていた喉を、土方は軽く空咳で払った。その小さな音に斎藤は顔を険しくして、問いただす眼差しを寄越して、そして無言で水のボトルを差し出した。受け取って開封し、中身を口に含む。ひんやりとした液体が喉をくぐり抜けて、少しずつ体温を奪いながら、身体の中を落ちていった。開けたままボトルを返すと、斎藤は残りを一気に呷って、カラにしたそれを片手で潰した。土方はため息で答える。馬鹿野郎、とは言えなかった。この男が過剰な力を薄いプラスチックにぶつけた理由、それは他ならぬ土方自身にある。そういうことになっているから、彼はことばを返さなかった。
 遠くの向こう岸を目指して、車は荒野を進む。




「あんた、今、なんて」
 この男らしくない、絞り出す声に、土方は仮寝から引き戻された思いがして、緩慢に顔を上げた。紙束の散乱した作業台を挟んで向こう側、斎藤は疲労の濃くにじんだ顔を歪めて、土方を見ていた。
 とうに日付の変わった深夜帯の管制室は、進行していたいくつかの作戦をすべて終え、閑散期を迎えていた。常勤のスタッフを引きあげさせたあとで、居残っているのは、入れ替わりに詰めているわずかな宿直当番と、時報代わりの珈琲の差し入れ、そして土方らを含めた、事後処理に当たっている数名のみである。
 水冷システムをめぐる冷却水の密やかな音が聞こえる。半導体素子メモリの集積が稼働率を落として久しく、深い天井の管制室は、海の底のような冷気に沈んでいる。
 なんて、と問われて、土方は記憶を手繰る。平然と雑務を引き受けている彼に、不満を露わにしたこの男の一言、ここがやりとりの起点だった。あんたじゃなくても務まる仕事でしょう、それ。彼はそう言った。事実である。今夜土方が抱えている仕事、戦略と戦果のフィードバックは、ひとりで手が足りる程度に単純だった。結果を急いてもいなかった。そもそも、手伝え、とも命じていない。ただ、言われずとも手を貸す出来た部下であるこの男に、それを言ってしまうのは薄情な気もしたから、おまえも引き上げていい、とだけ答えたのだ。
「上司がまだ残ってんのに僕が休んでちゃ、あんたの格好がつかないでしょうよ」
「おまえがそれを気にする理由はもうねえだろう」
 ああ、これが拙かったか。腑に落ちる。土方としては、沖田が下がり、藤丸が休み、隊士と呼べる人員が斎藤ひとりとなった今、彼が頑なに体裁を固持する意味はもうないだろうと、意図したところはそのくらいのものだった。不慣れなことはするものではない。強い物言いを避けたつもりが、かえって裏目に出たようだ。
 この男も馬鹿ではない。ほんの一言分、もれ出た揺らぎを、いつまでも垂れ流しにしておく男ではなかった。気色ばんで見せた顔をすぐさま引っこめ、いつものつかみどころのない表情を貼り付けて、斎藤は口をつぐんだ。何も起きなかった、そういうことにしようとしている。よくわかるからこそ、土方は弁明の言葉を継ぐことができなくなった。
 一対の生白い手が、行き場をなくして、折り重なった紙束の中をかき回している。土方はそれを目で追う。腹立ち紛れに席を立つような隙はない。言い換えるならば可愛げがない。この男は今も変わらない。腰を据えることにして、椅子を引きなおそうとする。その挙動に、びくり、斎藤の手がにわかに跳ねた。手のひらが文鎮代わりにしていたマグカップを打って、中身が作業台に飛び散る。珈琲という名の持つほの甘い響きとはかけ離れた、インクを煮出した色の液体が、ふたりの間を塗りつぶした。
「馬鹿」
 土方はカラになったカップをひき上げた。机上は壊滅、といった有様だ。滴が落ちて、冷めた黒い水面がかすかに波立った。なにか拭くもの持ってきます、そう言って、斎藤は返答も待たずに、指の間からすり抜けていく水のように、引きとめる間もなく、席を去った。
 これは、長引きそうだ。遠ざかってゆく背を目で追う。土方は短く嘆息した。即席の海は、あらゆる文字を押し流して、浅い水底に沈めていた。
「忠犬野郎に今のはキツイぜ?」
 珈琲ポットを軽く掲げて、口を挟むのは燕青だ。わかっている。一言だけこぼした返答は、斎藤に届くことなく、夜霧のような冷気に飲まれていった。

 救難信号を受信したのは、この翌朝のことだった。


(サンプルここまで)